2008年04月12日
チベットの暴動と虐殺★
あたかもバチカンのように宗教的な独立国家であったチベットが、中国人民解放軍の軍事制圧によって崩壊したのは1959年。ダライラマがチベットを脱出してインドで亡命政府を樹立してから、約半世紀を経過してしまった。仏教を国の柱としていたチベットと唯物的共産主義が相容れないことは自明のことだが、中国のチベットへの長年に渡る行動は誰がどう見ても、「侵略」と「虐殺」だろう。
共産主義国家の恐ろしさというのは、根底に「唯物主義」という一種の宗教をもっていることであり、それ以外のどのような思想信条の自由も国民に与えない点なのだが、今回のような事件をみると、ますますそんな思いを強くしてしまう。
全てが「物質」であるなら、人間もただの「物」であり、虐殺と暴力による支配は自明のプロセスだろう。
チベット民族に起こった出来事は、「悲しい国の滅亡」だったけど、歴史の流れはどんなネガティブもポジティブに変えてしまうところがある。考えてみると、チベットの崩壊にもそういう部分はあった。仏教的な因習のなかに埋もれ続けてきたチベットの「瞑想文化」のエッセンスが多くのチベット仏教僧の海外亡命によって、世界に広まっていったことだ。欧米で東洋的な瞑想が大衆に支持されるようになった背景にはインドの「グル」と並んで、チベットの仏教僧の力によるところが大きいかも知れない。
こんな風にして世界の文化はブレンドされ、あらたな文化が再生される。
ともあれ、世界が一つに和合していく中で「宗教」と「主義」は大きな障壁となっていくことは間違いない。たぶん世界は「宗教」や「ナントカ主義」を超える地点に差し掛かっているのだ。正しい物の見方は、複雑な教義や主義を必要としない。人が肉体という小さな檻の外からものを見る習性を身につけた時、いかなる人とも自然界の何者とも分離していない自分に気づく。もともと、人と人は一つのものなのだ。
もし、他者に対してある思想や主義主張を押し付け、武力や暴力で支配している国や人がいたならば、それは正に自分自身に対してそうしていることと同様なのだ。
中国は自分たちの所業の恐ろしさに、やがて自ら戦慄する日がやってくるだろう。
それは、法則である。
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